夏合宿道隊 大雪山


夏合宿道隊 大雪山 FB 

2015年は新入生が多く、合宿の隊の規模が大きくなった。そこで難所が少ないが展望の良い山域ということで、北海道最大の山群、大雪山系を選んだ。
十勝から石狩までを完全縦走することを目指したが、天候に恵まれず残念だった。
旭岳が姿見の池に映る

参加者(18名)
三年会 L大西、宇田川、sW藤原
二年会 H川原、E長根、F新留、F野原、W八嶋
一年会 飯沼(N)、梅宮(N)、大石(N)、久保(N)、島田(N)、田嶋(N)、武田、張、西山(N)、ハル(N) (Nは道N権者)

7/31(金) デポ作成、および熊レポート
本郷部室にてデポを作成。天人峡温泉のホテル天人閣へ送り、フロントで預かっていただいた。送る際に一箱25kgの制限にひっかかって詰め直すことになるとは…。一年生のデポ品は上級生が一対一でチェックしていたのだが見落としがあり、張が行動食と米をデポし忘れていたことが8月2日に、武田が米を前半分までデポしていたことが入山後の6日に発覚した。張の分は5日に札幌から天人峡へ個別に送った。武田の分は炊く米を17合に減らすこととなった。
また、この日は熊レポートを復習し、現地での熊への対応を確認した。

8/5(水) アプローチ 曇りのち雨
12:00札幌駅集合=16:30上富良野駅▲0

12時に札幌駅に集合。鉄道で二日がかりで来た人もいれば、飛行機を使って数時間で来た人もいた。EチェックとFチェックを集合前にメールで行ったところ、この時点で判明した忘れ物は田嶋の大缶のみであった。札幌には登山用品店が複数あり、大缶もあった。札幌から上富良野までの移動は、東日本パスの有無によって、全区間鉄道か、高速バスと鉄道の併用に分かれた。
天気予報では5日夜から6日午前にかけて雨ということだった。▲0の予定の十勝岳温泉登山口には屋根がない。初日から装備を濡らして重くするリスクを避けたかったので、▲0を上富良野駅舎に変更し、翌日朝に登山口へ移動して入山することにした。5日後にも悪天の予報だったため、▲3→▲4の長い限界上行動で雨に降られるのを避けるために入山予備日は使いたくなかった。
上富良野駅で、7人の一年会が予備食はα米三袋であることをちゃんと分かっておらず、十分な数のα米を持って来ていないことがわかった。代用品は、駅の近くのスーパーでパックご飯を買って用意できた。この予備食のミスについては、上級生から一年会に打ち合わせのときに口頭で伝えただけで、その後の確認を怠っていたことも一因だろう。 また、一年会3人が個装の泥除けスパッツ(ゲイター)をロングスパッツのことと勘違いして持ってきていることもわかったが、これは必要になったら上級生が貸すことにした。
就寝前に少し時間をとって反省会をした。

8/6(木) 曇り時々小雨、夜から晴れ。終始ガス
▲0=十勝岳温泉登山口7:58-8:16三段山分岐-(タルミ10分)-9:06上ホロ分岐-(タルミ12分)-10:35富良野岳分岐10:49-(空身)-11:10富良野岳11:16-(空身)-11:35富良野岳分岐11:45-(タルミ11分,11分)-13:50かみふらの岳-14:14上ホロカメットク山-14:30上ホロ避難小屋▲1

○今合宿は隊の人数が多いため、行動時は18人を9人ずつ2グループ(一年生5人・上級生4人)に分けた。このグループを「一隊/二隊」と呼んで、前の一隊を藤原が、後ろの二隊を大西が見ることで、一年会の体調の把握や休憩の時の水出しなどが楽になった。それでも18人もいるために、隊がタルミ場所に入りきらなかったり、隊の先頭がたるみ始めてから最後尾が荷物を下ろすまで時間がかかることは少なくなかった。
○行動中の熊対策だが、トップとLが鉈と熊スプレーを、他に宇田川と藤原が熊スプレーを携行し、トップが適宜笛を吹きながら進んだ。L は双眼鏡も携帯していたが、使う機会はなくて済んだ。
○大雪山域の植生は、1000mを越えると潅木と笹が主体。1500mの森林限界の付近で背丈よりも低くなり、2000mに近づくにつれて草原または無植生となる。そのため標高は低くとも、雷からの防護物のない登山道がほとんどを占める。

雨は夜中に止んだ。バスの始発を待たずにジャンタク2台で登山口へ向かい入山。 最初の1分間スピーチは飯沼で、山小屋の自然還元式トイレにびっくりした話。富良野岳分岐までの三回の渡渉は、いずれも足を濡らさずに済む程度。しかし、数日後の記録的大雨の日には、増水により別の登山者が渡渉困難に陥って救助要請するに至ったことを記しておく。水を二日分、一人三発持っているために一年生や長根は重そうだった。しかし読みより遅れることなく進み、富良野岳をうって最初の集合写真を撮る。合宿を通じて一年生は体力的に余裕そうであり、特に田嶋の成長ぶりには驚かされた。ガスで展望は望めなかったが、草原には可憐な高山植物が咲いていた。三峰山付近に多少岩場もあるが問題ない。かみふらの岳の標は地形図にある1893mピョコではなくその先の微高地にあったようで、ガスで視界が悪かったのもありRFに少し手間取った。上ホロカメットク山の名前は下山するまでネタにされ続けることとなった。上ホロ避難小屋はテント泊の予定だったが、到着と同時に雨が強く降り出したため、小屋泊を決める。
小屋には他の登山者を含め25人が入り、ぎりぎりだった。テン場は一張りがやっとのスペースが点在している様子で10張りも張れないだろう。上ホロ避難小屋の水場は例年であれば雪渓があるが、今年は昨シーズンの記録的少雪の影響で、付近の登山道(上ホロカメットク東斜面の巻道)から見える範囲の雪渓は全てなくなっており、水流の跡があるのみだった。小屋にいた人の話では、登山道を大きくはずれ東へ下れば雪渓が残っているが、熊の出没率も高くお勧めはできないらしい。確かに翌日に遠くから雪渓は視認できたものの、登山道が見えなくなるまで下らねば到達できないように見えた。ちなみに小屋付近の稜線上は電波が入った。
上ホロ避難小屋にて
夜サイトの海鮮鍋は一方の鍋のワンゲル肉が焦げすぎていたが、アプローチに日数がかかるゆえ仕方なしといったところ。蟹や帆立と具沢山で美味しかった。田嶋や西山は茶飯にバナナを入れて美味い美味いと言っていたが本当だろうか…。この日の行動中はずっとガスだったが、18時半に展望を諦めてもう寝ようとしていると東の空が晴れて夕焼けが現れ、翌日への期待が膨らんだ。八嶋の天図でも翌日以降は回復しそうだ。19時就寝。

8/7(金) 晴れ、10時からガス
▲1 4:33-4:46大砲岩-5:24十勝岳5:49-6:36 1780コル 6:48-(タルミ11分)-7:56美瑛富士分岐7:59-(空身)-8:10美瑛岳8:29-8:41美瑛岳分岐8:45-9:11美瑛富士分岐9:24-(空身)-9:43美瑛富士9:58-(空身)-10:09美瑛富士分岐10:13-10:37美瑛富士避難小屋▲2

起床は34半。チキンラーメンを指定したFの才覚によりラーメン餅は無事に成功する。人数の多さから撤収に時間がかかるが、この日は小屋泊であったのでそれほど遅れなかった。一分間スピーチはこの日から一日二人になり、この日は梅宮が「僕がワンゲルで偉くなったら変えたいこと」、大石は源氏物語について。朝から快晴で、十勝岳の火山地形に驚嘆
しながら歩く。硫黄岩の南側では硫黄臭が強く、川原など数人が咳き込んでいた。十勝岳付近は岩というより砂礫の広い尾根が続くので、視界不良時の道迷い注意もうなずける。ただ道標が一定間隔であるため、最低限25mの視界があれば大丈夫だろう。
十勝岳山頂
十勝岳山頂は、はるか旭岳や石狩岳まで望むことができた。
十勝岳の火山地形
十勝岳に来るまでの地図読みができていたので、1780コルからはトップを一年会に任せる。初トップでは二年会をセカンドにつけて指導させたのもあって、隊が長いにもかかわらず一年会トップは概ね安定していた。美瑛岳と美瑛富士は空身でピストン。美瑛岳で村瀬さん差し入れのエナジーゼリーをいただいたが、なかなかすごい味であった。美瑛富士も富士を名乗るには低いかもしれないが、過去のようにカットしてしまうには勿体ない良いピークだ。この日のうちに▲3まで行くことも不可能ではなかったが、そうなると四日連続の長時間行動となり、この時点で一年生に疲れが見えたこともあって止めた。この時点で大石が靴擦れを起こしていた。
美瑛富士避難小屋の水場だが、例年ならば美瑛富士への東斜面にあるはずの雪渓も今年はすでになく、名残として花の咲く草原があるのみ。カミホロ小屋の周辺と異なり美瑛富士の東側斜面は藪が濃いため、道を外して雪渓を探すことも現実的ではない。今回は水は小屋から登山口への道が標高1550mで交差する大きな沢から汲んだ。沢の流れは涸れていたが水たまりが残っていた。Lと一年会は小屋に残り上級生に水を汲みに行ってもらったが、スーパーデリオスの浄水速度は15分/2Lが良いところで、1日分を汲み終えるまでに一時間半を要した。カタログスペック(2分/2L)はなんだったのだろう。美瑛富士小屋のテン場は、快適に張れるのは5張りまで、ぬかるみや石ころを我慢すれば10張り以上といったところ。熊やキタキツネを避けるためにサイトはテントから離して外で行い、食料類はザックから出して小屋の中に保管した。就寝時は各テントに一人は上級生が入り、各テントが熊スプレーを一つ持った。実際、このテン場ではキタキツネが現れ、人間を全く怖がらずに近くまで寄ってきた。
ここまでの水場で雪渓を溶かして水をつくる事態に備え、追加の小缶1を長根が歩荷していたが、美瑛富士避難小屋まで到達したことで不要となった。ここで、Lはミスをして長根の小缶ではなく自分の持つL缶を宇田川に差し入れ用としてあげてしまい、長根から小缶を受け取らなくてはいけないことに10日朝まで気づかずにいた。
夕食は野原による鶏飯で、去年の鳳凰三山から随分とおいしくなった。サイトの後は天図大会(一年会+八嶋)で、ハル・西山・飯沼など手慣れた面子もいる一方で、未練習の島田・張・田嶋などはなかなかひどかった。天図大会も終わると疲れて早く寝る者・合唱する者と様々で、18時に就寝。熊の懸念から山ではオカンは無し(以降同じ)。 

8/8(土) 晴れ
▲2 4:49-(タルミ10分) -6:04ベベツ岳-(タルミ11分)-7:33オプタテシケ9:06-(タルミ12分)-10:38双子沼キャンプ指定地▲3

34半。起床して暗い中でテントから小屋へ食料を取りに行き、外でサイトをするのは手間がかかるが仕方ない。新留がパスタソース9人分を忘れたが、工夫により普通に美味しい和風パスタが完成した。常に外サイトだったこともあり、この日に限らず、朝サイトの時に誰が何をするかはほぼ一年生の自由に任せていた。しかし、人数が多いこともあって手持ち無沙汰にする一年会も出たので、外での朝サイトであっても役割は決めた方が良いかもしれない。
サイトと撤収はほぼ遅れずに終わったのに比べ、パッキングが遅かった。この日からは体操も一年会二人に任せる。スピーチでは久保がいきなり「ぼくはくぼ」と歌い出して驚かされる。島田は鉄道旅行の話。美瑛富士避難小屋も稜線では電波が入る。オプタテシケへの稜線は植生がほとんど無く、歩きやすい岩の道。この日も晴れて暑く、シャツに塩を噴く人も出始めている。島田が現在地を聞かれた際に頓珍漢な答えを返し、「島田のベベツ岳」なるものが生まれる。野原はタルミのときにめがねに日焼け止めを塗っていたらしい。
オプタテシケ山頂
オプタテシケ山頂は十勝岳と同様に石狩岳まで望める気持ちの良いピークで、時間に
余裕があるので長くタルミをとり、藤原は差し入れの餅を出した。山で、餅網で焼いた餅を海苔と醤油で食べられる日が来るとは思わなかった。時間があるときには良い差し入れだ。オプタテシケの北側は細い岩尾根に道が付いており、その後の長く急な下りは足に負担だ。張のトップは早く、注意してもあまり変わらない。テン場に着いた時点で、数人に足の痛みあり。
キャンプ指定地も一張りがやっとのスペースが散在している形で、ぬかるみを避けると4張りがやっとだった。水は双子沼がやや遠いので、付近の涸れ沢に点在する水たまりから汲んだ。スーパーデリオス6個を18人で回しつつ、餅の残りを焼きつつまた1時間半。酷使されたスーパーデリオスは本体2個に小さい孔が開いたが、指で塞ぐかプラティパスを用いれば問題なかった。サイトの後の天図大会では、昨日は散々だった面子の天気図も着実に改善しており、下山前日には(時間をかければ)きれいに書けるようになっていった。
天気図からは翌二日間の天候悪化が予想された。▲4には限界上だが小屋はなく、避難できる下界やヒサゴ沼避難小屋は遠い。加えて北沼分岐は大雨時には通過できないから、少なくとも翌一日半は天気が崩れない保証がないと前進できない。衛星携帯で村瀬さんに電話して予想天気図を確認してもらおうとしたが、通話が聞き取りづらく難航。その間に藤原と川原がテン場の南側の尾根上まで行って電波を入れ、予想天気図・高層天気図と天気予報を持ち帰ってくれた。それを元に上級生で相談し、非悪天を保証できないことから、引き返して美瑛富士登山口へ下山し、タクシーで旭岳青少年野営場方面へ行ってそこで一日停滞することにした。
このテン場での食料の扱いについては、タッパーのような固いものに入れるかザックに入れて封をし、まとめてテントから離れた場所に置くことにした。ザックをテントから離して置く人は、夜間の避難の備えとして地図・雨具・防寒着をテントの中に入れた。方針の相談に時間がかかったため、就寝は19時過ぎ。

8/9(日) 曇りのち晴れ、時々ガス
▲3 4:47-(タルミ12分,11分)-6:55オプタテシケ山-(タルミ11分)-8:18ベベツ岳8:30-9:18美瑛富士避難小屋9:48-10:38 1350m付近 11:04-11:44 天然庭園(1200m付近) 11:54-12:30タルミ・隊分離 12:38-(本隊)-13:03美瑛富士登山口=天人峡温泉(デポ回収)=旭岳青少年野営場▲4〜7

34半。テントの外で朝サイトをするのには慣れてきたが、パッキングが相変わらず遅く、注意する。武田のスピーチは、彼が何をして高校でたった一度だけ怒られたか。田嶋は「なぜユーラシアで生まれた人類が世界を征服できたのか」。歩き始めからオプタテシケへの急な登り返しは辛く、短ピッチをきる。二度目のオプタテシケはガスっていたのでタルまずに通過。美瑛富士小屋から登山口への登山道は、ぬかるんでいて岩も多く、歩きにくい道だった。標高を下げるにつれて暑くなったのもあってペースが上がらない。1350m付近で電波が入ったのでタクシーを呼ぶ。(18人を運ぶためにジャンタク一台で二往復してもらうことになり、以降これが普通になる。)天然庭園は名前から期待していたが、ちょっと大きな岩や曲がった木がある程度で期待外れだった。ゆっくり歩いていたためにタクシーの予約時間が迫ってきたので、登山口まで30分のところで熱中症気味の藤原に宇田川と長根をつけて分離し後からゆっくり来てもらい、本隊は先を急いだ。このたるみの前後でLはクマスプレーを道に落としたものと思われる。登山口で紛失に気がついたが、それでも隊に三つはスプレーがあるのでそのまま進行した。Lは分離隊の下山をメールで確認した。タクシーではまず天人峡温泉に寄ってデポ回収と入浴を済ませ、その後に旭岳青少年野営場へ向かった。
ボルシチ
途中下山により合宿の前半部は予定より縮まったが、食糧・燃料は縮まった分も携行した。旭岳青少年野営場は下界のキャンプ場で水道・トイレがあり、付近には日帰り温泉もある充実ぶり。時期によっては混むらしいが、滞在中は常に空いていた。管理人のおじさんも山に登る人で数日前にはトムラウシに登ったらしい。夕食はビーツとワインを贅沢に使ってボルシチ。サイト軍手はビーツで紅く染まったが、価値ある食事だった。テン場に
は蚊が多かったため、蚊が嫌いな田嶋はダンスを踊っていた。食糧はこれまで同様にザックに入れて封をし、20時半就寝。

8/10(月)  曇りのち14時から小雨、18時から雨
▲4〜7にて終日停滞

5時に起きて朝のぜんざいを食べ終えると、上級生で方針を相談した。翌日以降も安定しない天気図が続くことから、小屋のない裏旭キャンプ指定地でのサイトはやめ、旭岳青少年野営場→黒岳石室→忠別岳方面へ進み、そこで天候を見てトムラウシ・石狩岳の両方をうつか、どちらか一峰のみをうつか決めるのが良いだろうとなった。食糧面からしても、途中で天候や体調のための停滞日をとれるだけの余裕があった。旭岳野営場から黒岳石室までもとは二日分の行程を一日でいくために、明日はロープウェイを利用することにした。
昼間の時間は皆それぞれに荷物を整理したり、売店を覗いたり、入浴したり、コインランドリーを使ったりして停滞日を過ごした。8月1日の豪雨により、愛山渓温泉の三十三曲分岐の下の橋が破壊され、増水時に通行できなくなっていることが判明した。14時から雨を避けて炊事場の屋根の下でサイトし、その後は天図大会。翌日の起床は、ロープウェイの始発が6:00(Lが曜日を勘違いしており、実際は6:30だったのだが)であることと、これまでの朝の準備が遅く出発が間に合っていないことから3半5半とする。

8/11(火) 早朝雷雨のち晴れ、10時から16時まで雷雨、16時以降晴れ 
▲4〜7 5:30-5:43ロープウェイ山麓駅7:30=(ロープウェイ)=7:40ロープウェイ姿見駅7:53-8:08旭岳石室-(タルミ11分,11分)-10:09旭岳11:06-11:17裏旭キャンプ指定地-11:29裏旭キャンプ地の北東斜面にてビバーク12:30-12:45裏旭キャンプ地にてビバーク15:05-15:33旭岳-16:00タルミ16:11-16:38旭岳石室16:58-17:12姿見駅17:15=(ロープウェイ)=17:25山麓駅-裏旭キャンプ指定地▲4〜7

3半5半。早朝の短いあいだ雷雨。サイトを済ませて撤収し、ロープウェイの山麓駅へ移動する間に雨は止んだが、雷鳴はまだ遠くに聞こえていた。ロープウェイは初めのうちは落雷の恐れのために運休していたが7時半に運行を開始。その時点で雷鳴は聞こえていたが雨は降っておらず、雨雲は東の空にのみあって東へ流れていた。そこで、ロープウェイで登った先の姿見駅でもう一度進退を判断することにしてロープウェイに乗った。
旭岳へ
姿見駅では、西の空に雲はなく、雷鳴が聞こえなかったために進むことにした。ただし、姿見駅やその後のタルミでは空電を確かめることはせず、初めてラジオを出したのは山頂に着いてからだった。姿見駅も電波が入ったのでLは雨雲レーダーを見ることができたが、雨雲は散在的しており、旭岳から先へ進める可能性もあると思っていた。張の一分間スピーチは中国の「受験の工場」と呼ばれる厳しすぎる進学校の話で、西山は花崗岩の話。歩き始めは久しぶりの晴れで気分が良い。背中は重いはずだが合唱しながら歩く一年会もいた。旭岳周辺は荒々しい火山地形であり、植生は全くない。雷で足止めをくらっていた
他の多くの登山者と抜きつ抜かれつ歩く。
登るにつれて雲量が増え、山頂に着くとすぐに遠い雷鳴が聞こえ始め、空電も入った。山頂は電波が入り、進学振り分けの志望集計発表がちょうど10時だったので、二年会+藤原・大石の7人は山頂に着くや否やスマホを取り出し発表を確認していたのだが、新留の手続きの重大なハプニングもあり、天候の悪化に注意が向かなかった。ラジオでの空電の確認やスマホでの雨雲レーダーの確認をしたのはLと宇田川の二人だったが、それらの情報を他の上級生に明確に伝えないまま、雷が来るより前に黒岳石室までたどり着ける幸運に賭けたいという誤った気持ちで先に進む判断をしてしまった。
本来ならば山頂についた時点で姿見方面へ引き返すべきだったが、先へ進みたい気持ちや進振りへの関心によって上級生全員が誤った判断をしてしまった。
結果、裏旭キャンプ指定地を過ぎて北東斜面を少し登った2140m付近で雷鳴が近くなり、登山道の脇の小さな窪地でビバークした。じきに雨が強く降り出し、ゴアマを着ていても寒かったため、防寒着を着てフライの下に入った。その後、雷が少し遠くなった際に、尾根から少し外しただけの初めのビバーク地点から、盆地になっていてより安全だと思われた裏旭キャンプ指定地へ移動し、そこでビバークを続けた。14時半過ぎより雨が止み雷鳴が聞こえなくなったので、急ぎ旭岳温泉へ引き返すことに決め、靴擦れの治りきらない大石と長根の荷物を抜くとともに余分な水を捨て、15時すぎに出発した。旭岳を過ぎる頃には上空と東の空の雲は晴れて雷の心配は無くなった。そのままロープウェイで下山し、旭岳野営場に戻った。

8/12(水) 晴れののち12時から雷雨、夜曇り 
▲4〜7で終日停滞

終日停滞。朝のネギうどんはなかなか挑戦的なメニューだった。天候からして翌日も停滞なので、この日の夜と翌朝は予備食のα米とすることにした。予備食がただの白米な一年会が多かったこともあって、大西と新留がバスで東川市街地へ出向いてレトルトカレーやウインナーなどを買い込んだ。雷雨の下で天図大会をしたが、空電が3秒おきに鳴ってまるで聞こえなかった。野原が持って来たフレーバーティーの茶飯が貴重な癒しだった。
翌日以降も不安定な気圧配置が続く予報で、前日のような急な雷雨の恐れがある日には停滞を余儀なくされることが予想された。そのため、日数のかかる黒岳からの南への縦走から、天人峡から入山し二泊三日でトムラウシのみをうつ方針に変更した。

8/13(木)  朝快晴、昼曇り、15時から強い雨、17時から曇り
▲4〜7で停滞ののち 17:00=19:00天人峡温泉▲8

停滞の間に食糧の保管が甘くなっており、夜の間に、久保が炊事場のベンチの上に置いていた米一合とパックご飯一袋がキタキツネの被害を受けていた。壁を伝ってベンチに跳び乗ったらしく、地面より高いところに置いてあれば大丈夫というのは甘かったようだ。他に銀マ、プラティパス、サンダルなども動かされていた。新留のヘッテンが入山時から調子が悪かったので、米の代用品とヘッテンをロープウェイ山麓駅で買う。朝の時点で藤原と野原に軽い熱と頭痛があるが、翌日の入山は可能だろうと聞く。
翌日の天気図が少し回復するので、天候が許せば天人峡から入山することにし、今日中に天人峡に移動することに決めてタクシーを呼ぶ。夜サイトは炊き込みご飯だったが、量が多すぎたのか九合の方のコッヘルはひどく焦げ付いてしまった。この日も天図大会をするが空電は入らなかった。
天人峡は情報の通り公衆トイレ・東屋は工事中だったので、路線バスの乗り場跡地にテントを張った。この跡地は公共駐車場の隅、トンネルを出てすぐ左側にあり、地面が砂利敷きではあることを我慢すれば4張り張ることができた。張って良いのかはグレーだが駐車場に張るよりは良いだろう。バス待合所跡の小屋は鍵が空いていて清潔だったので、藤原・野原は小屋の中で寝た。御やどしきしま荘のご厚意でトイレを貸してもらい、水をいただいた。夜は流れ星が期待できるということで一年含めオカンする人も多かったが、残念なことに曇りで見えなかったらしい。

8/14(金)  晴れののち昼から雨
▲8にて撤退を決める

2時半に起き、入山するつもりで朝サイトと撤収を終えたが、天気図は期待ほど改善しておらず、気象庁の天気予報に雷を予想する一文があったこともあって、この日の入山を取りやめることを決めた。空は晴れているのに、二日の停滞の後で今日こそは入山できると思っていたのになぜ入山できないのかと、正直天を恨めしく思った。
そのまま天人峡で時間を過ごし、10時ごろに最終下山日21日までの予想天気図が発表されるのを待って今後の方針を相談した。予想天気図はこの先も不安定な天候が続くことを示していたが、あくまで予想に過ぎず、予備日をあるだけ使って停滞を続ければ、晴天をつ
層雲峡
ないでトムラウシをうつことくらいは可能かもしれなかった。気象庁に電話をして今後の見通しを聞くと、地上付近と上空の温度差によって大気が不安定な状況は、改善はするが解消はしないだろうということだった。大気が不安定な状態が続くのであればトムラウシは遠のく。個々の人の肉体的疲れや精神状態の個人差が大きくなってきていて、このまま停滞を続けることが良い判断と言えるのか、上級生で話しただけでは結論が出せなかった。
そのため、全員に集まってもらって先の見通しを説明し、停滞をつづけるか撤退するかについて各人がどう思っているかを言ってもらった。結果、天候に翻弄されての停滞やビバークによって精神的に疲れ、撤退したいという意見が隊の半分から出た。一方で、天候の回復に望みをかけ停滞を続けたいという意見が1年会の中からも出た。最後はLが撤退を決めた。この時には13時になっていた。
雨が降り出しため、天突きの準備はできていたがしなかった。しきしま荘で露天風呂に入り、タクシーで旭川へ行き、予め東京から郵送してあった下界装を回収した。そして焼肉屋での打ち上げと反省会をもって合宿は終わりを迎えた。翌日からは札幌へ急ぐ人、旭川を観光する人、稚内・利尻島を目指し北上する人と様々だったが、それはまた別のお話。

まとめ
森林限界が低いためにルートのほとんどが限界上であり、加えて避難小屋の類が疎であるため、天候が安定しないと行動が難しい山域であった。その上で、実際に雷雨を伴う不安定な天候が続いたため、隊は思うように動けず、停滞・撤退を余儀なくされることとなった。
天候に恵まれた前半部がとても楽しかっただけに、後半の撤退が残念でならない。


0 件のコメント:

コメントを投稿